CHAKAIについて。

CHAKAIについて。

2021年4月某日。ぼくはある映画を見ていた。タイトルは「人間失格」。あの太宰治がいかにして死ぬかを、美しく、儚く、華々しく再解釈した、そんな作品だった。ぼくが今まで見た作品の中で、最も美しく、儚く、華々しかった。初めて見てから2週間がたった今でも、なんと形容すべきかわからない感情が自分の中で渦巻いている。強いていうなら、清々しさかもしれない。

ふと、作品のレビューを見てみると、「後味が悪い」「意図がわからない」みたいなコメントがぎっしり。そう。この作品は一回見ただけでは絶対にわからない。難しい。難しすぎる。ぼくは4回見た。この作品の本質は、この作品を見終わって、見ていない時間にこそある。それこそが、この作品の美しさだと思った。「命がけの仕事」とか「人生を賭けた戦い」みたいなことをめちゃくちゃ考えさせられた。劇中に、いろんな強すぎる言葉が出てくる。

太田静子「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」とか、

三島由紀夫「何を書いたって誰も本当には理解しない。それがわかってて、なんのために書くんですか?」とか。

いくらなんでも強すぎるよな。笑 これらの言葉をリアルタイムで処理できてる観客はいるんだろうか。

中でも、ぼくはこの言葉にハッとした。

太宰治「こっちは血ィ吐きながら書いてんだぞ」

血を吐いてでも、したいと思える仕事、できてる?

血を吐いてでも、作りたいと思えるもの、作れてる?

なんというか、産みの苦しみ的なものが、この17文字には詰まっている。どんなにいい作品を生み出しても経済的に追い詰められていく、この太宰の言葉に、だ。

いや違う、産みの苦しみなんかじゃない。どんなに苦しんでも、産み出そうとしてしまう、天性のバグだ。

太宰はバグってる。狂ってるんじゃない。バグってる。

3回目に見た時、気づいた。彼は、小説に殺されたわけでもなく、社会に殺されたわけでもなく、一緒に心中した山崎富栄に殺されたわけでもなく、ある言葉に殺されたんだ。

それは、本妻に言われた、「体を治して家に帰っても、尊敬はしません。あなたはもっとすごいものが書ける。壊しなさい。私たちを。」

太宰は何かを失うことでしか、何かを生み出せない。元来そういう体質の人間だ。そういうバグが太宰の人生には潜んでいたんだ。この言葉が重なり、太宰の中でずっとかかっていた、いわば「リミッター」が外れたんだ。

自らの全てを出し切る、究極の物作りをしてしまったんだ。

そして、命を捧げた。


さて、これを読んでいる、そこのあなたは、何かを生み出すために、何を元にする?経験?知識?感覚?

多分、誰も説明できないと思う。いろんなものが、いろんな風にぐちゃぐちゃになってて、それをこねくり回して、どうにか産み出すんだ。100人作り手がいたら、100人それぞれの方法で、産み出している。

ちなみにぼくはというと、バグってる側の作り手だ。自らが受け取った(受け取ってしまった)感情や経験を元に、何かを生み出そうとする。幸いなことに、いろんな方面からいろんなリミッターをかけてもらっている。

ぼくは今、作り手として、無性に他の作り手の生み出し方に興味がある。残念ながら太宰に産み出し方を聞くことはできないけど、今を生きる偉大な作り手になら、聞くことができる。ベースにしている経験とか、市場が違うと、おそらく全然違う作り方をしているはずだし、異なる作り方をしている人から学びたい。盗みたい。下心100%だ。

そんなわけで、毎回異なる作り手を読んで、一緒にお茶をすることにした。せっかく偉大な作り手の時間をいただくわけだから、ぼくだけのものにするのはもったいない。対談形式のメディアにしよう。と言っても、特別なことは何もしない。ただ本当にお茶をするだけ。そうそう、ただの茶会なんだから、名前は"CHAKAI"にしよう。ってわけ。

2021年4月27日

山内奏人